6月に入りました!月刊モノローグ第二弾は武道家にして整体師、武術史研究からTV出演まで幅広い活躍をされており、数々の書籍を執筆し著書著作多数の博学者!
 東京、直真塾塾長・中山隆嗣先生が登場。テーマは「矛盾の故事を技術の質の向上に活用する」です。


 
日常生活の中ではいろいろな言葉を耳にします。その中にはいろいろな示唆に富むものが多く、その言葉から貴重な発想を得ることができ、そのことが自身の考え方や行動に大きく影響することも少なくありません。
 私は毎日ブログを更新していますが、そのほとんどは空手に関することです。もちろん、千唐流をベースにしている内容になっており、テーマは多岐に渡ります。
 その中で何度か登場している言葉として「矛盾」があります。
 日常会話の中でもよく耳にしますので、お馴染みの言葉の一つになっていると思います。
 この言葉は「韓非子」の「難一篇」に登場する話を基になっており、物事の辻褄が合わないことを意味します。
 その話というのは、矛と盾の商人が売る時の口上として、どんなものでも貫く矛、どんな攻撃にも耐えうる盾として説明した際、客からその矛でその盾を突いたらどうなるかと質問され、返答に窮したというところから辻褄が合わないことを「矛盾」と言うようになりました。

 そしてこの矛盾という言葉の構造はヘーゲルの「弁証法」にも見られますが、簡単に言うと「正→反→合」という構造になります。

前フリが長くなりましたが、こういうベースがあって今回のテーマにつながります。
 稽古では攻撃と防御という相反する存在を前提に習得し、それぞれの技の目的を果たすように意図し、武術家としての高みを目指します。
 前述の物売りの商人の口上になぞらえるならば、どんな受けも通じない強烈な攻撃技、同時にどんな攻撃にも対応できる鉄壁の防御技を共に身に付けるということになります。
 ただ、稽古として考える時、このことは異なる2つの存在同士がぶつかり合うというものではなく、当人の中に存在するものですので、それぞれの性質を有する存在に「矛盾」は生じません。
 先ほどお話ししたヘーゲル弁証法で言う「合」というステージが「正」と「反」の過程を経て存在していることになります。
 このような考え方は東洋哲学の陰陽論でも理解でき、「陰」と「陽」という正反対の存在が一つになって「太極」になるという思想と重なります。

 洋の東西を問わず同様の構造を持つ哲学が存在するというわけですが、それを突きや蹴り、打ちといった攻撃技を磨き、同時に受けや体捌きなどを磨くという実践をするのが稽古という行動なのです。お互いが自分の中で競い合い、どんな防御も通じないような攻撃技を習得するため、相反する技も研究する、稽古することになり、そしてその逆の意識で受けも習得する、ということで自分の中でそもそも矛盾したことを同居させることを目指すことになります。
 ここで初代宗家のエピソードを一つご紹介しますが、師の一人に東恩納寛量先生がいらっしゃいました。空手道史では剛柔流の開祖宮城長順先生の師としても知られますが、実は同門だったのです。詳しくは別の機会にお話ししますが、宮城先生は剛拳の持ち主であり、そのことは広く知られています。
 

 初代と宮城先生とはあるエピソードを介して仲良くなり、共に稽古「することが多かったということですが、宮城先生の剛拳に対抗するため受けを研究したそうです。
 もちろん、そこから互いに学び取り、結果、それぞれの流儀の開祖となられたわけですが、こういう話は私たちの祖である初代のエピソードとして存在しているわけです。
 だからお話ししてきたことは机上のことではなく、また先人が、というような遠い話ではなく、身近な初代が経験されたことでもあるわけです。
 だからこそ、ヘーゲル弁証法の構造そのままに相反する存在を極限まで高めるための理を追求し、それを現実に身に付けるためにエンゲルスの説く弁証法である「量質転化」の考えに基づいて稽古にて数をこなす、という実践で高みを目指すことが大切と考えています。


 
 何故、理の問題をお話しするかというと、えてして数をこなす際の集中力の低下により稽古の効率が落ちるのではという懸念があるからです。
 それを常に理に即して自身の技を見直し、セルフチェックできるようにしておくことで限られた時間の中でもより良い成長が見込まれるのではないかと考えています。
                                       (了)