目次
千唐流とは
徒手空拳の武術は、 古代中国を起源とし、沖縄に渡来、 独特の唐手となった。
唐手は唐の時代に発達し、 千年の歴史をもっていると新垣翁 (初代の恩師) は教えられ、そ
れを基にして初代が 「千年の歴史」 の千、 「唐時代」 の唐より 「千唐流」 と名銘されたのもここ
に由来するものである。
千唐流の技術は、 悠久なる歴史の中で、 はぐくまれた優良な伝統を継承し、 生理医学を礎と
して生理的機能の発達と、 「和忍」 「力必達」 の精神を理念として、心身ともに健全な人間の育
成に役立つことを目的とするものである。
千唐流空手道の正しい知識を修得し、千唐流の指導普及発展されることを望むものである。
千唐流の系譜
文責:中山隆嗣
千唐流の遠祖、唐手の系譜
千唐流としての歴史は1946年、熊本県菊池郡隈府町に養成館道場が開設されてからとされる。開祖は初代、千歳強直翁(1898年~1984年・沖縄名 知念近直)だ。48歳の頃になるが、この年の1年前、太平洋戦争が終わり、まだ日本中がその傷も癒えていない時のことだ。空手道場開設の年齢としては遅いように思われるが、実は戦前、沖縄の宮古島で「沖縄拳法 宮古唐手研究所」を開設し、指導されている。
つまり、千唐流としての活動は戦後になるけれど、空手道の指導についてはもっと以前から、ということになる。そしてそのルーツは、沖縄での道場名からも明らかなように、「唐手」となる。
千歳翁によると、「唐手」の初代は知念親雲上(親雲上は役職名)とされ、1688年ごろ、中国の福建省に渡り、拳法を修行したと言われる。1726年、尚敬王の御附武官になった。
2代目として尚灝王御附武官の松村親雲上(松村宗棍、1809年~1896年、生年没年に諸説あり)になっているが、その師とされる佐久川寛賀翁(別名トーディ佐久川、生年は1733年、1762年、1782年、1786年など複数の説がある)が2代目を継ぎ、スライドして松村宗棍翁が後継になったという説もある。
そして1818年、3代目として尚育王御附武官の阿波根親方(親方も役職名)1838年、4代目として外間親雲上、1860年、5代目として新垣世璋翁(1840年~1918年、没年に異説あり)となっている。その流れの中で6代目として千歳強直翁と続き、1984年、7代目として2代目千歳強直宗家(1950年~)へと続く。
なお、明示されていない生年・没年については諸説があるため、今後の研究が待たれる。
千唐流開祖、初代千歳強直翁の修行時代
初代千歳強直翁は1898年10月18日、現在の沖縄県那覇市久茂地に生まれた。1905年、7歳の頃から新垣世璋翁に師事し、三戦、古流の形、棒術などを学んだ。敏捷で身軽なことからマヤー(猫)新垣とも呼ばれた。新垣翁の師匠のワイシンザンは初代ともゆかりのある東恩納寛量翁(1853年~1915年)や松村宗棍翁の師匠でもある。
また当時、棒術の達人と言われていた知念三良翁(1840年~1922年)からは大城朝恕翁(1888年~1935年)、富名腰義珍翁(1868年~1957年、生年は1870年という説もある)と共に棒術を学ぶ。知念翁の流派は山根流と称されるが、そのルーツは佐久川翁であり、古のつながりが見えてくる。
古武術の関係としては首里の金城大筑翁(本名は金城真三良、1841年~1926年、生年没年に諸説あり)に師事した。釵の名人としても知られているが、初代は首里手の大家知花朝信翁(1885年~1969年)と共に取手・逮捕術を学んだ。金城翁の門弟には屋比久孟伝翁(1878年~1941年)もおり、初代は1936年ごろ、屋比久翁から釵やヌンチャク・トンファーを習得した。
古武術については他の師からも教えを受けており、資料が名字だけになっているため正確には確認できないが、年代的なところから久米村の湖城大禎翁(1837年~1917年)か湖城嘉宝翁(1849年~1925年)のどちらかと、真栄里蘭芳(1838年~1904年)の2名の師からも同様の古武術を学んでいる。
また、那覇手の東恩納寛量翁にも師事し、サイファ、セーパイ、クルルンファー、テンショウを習得する。東恩納翁は新垣翁の弟子でもあるから、新垣門下としては兄弟弟子になる。もっとも、東恩納翁は1876年から1888年まで中国で修行しており、初代と共に新垣門下として共に稽古したことは無い。
そして、初代が東恩納門下になったのは、中国からの帰国後だが、当時、剛柔流開祖宮城長順翁(1888年~1953年)がいた。10歳違いの宮城翁は東恩納門下として先輩にあたるが、1915年に福建省に渡っているので、初代とはその前に共に稽古している。
初代は生前、宮城翁のことを盟友と語っていたが、東恩納門下では互いに技の研究に余念がなかったという。剛拳として名高い宮城翁の突きをもらったらたまらないとばかりに受けを、あるいは捌きを研究するといった具合だ。もちろん、宮城翁はそれを前提にさらに技を磨くといった具合に、切磋琢磨の稽古の日々だったという。
そこまでの仲になった背景には、初代の入門当時のエピソードがある。
当時、東恩納翁は弟子をとる際には厳格で、なかなか入門を認めなかったという。だから初代が入門を乞うてもすぐには叶わなかった。
しかし、どうしても入門したいという思いが強い初代は、晴れの日も雨の日も日参し、門のところで座っていたという。
その様子を見ていた東恩納翁が宮城翁に初代がどんな人物かを命じたという。そして宮城翁は結果を東恩納翁に伝え、そこで入門が許された。
つまり、初代が東恩納門下として稽古できるようになったのは、宮城翁の口添えがあったからであり、そこから急速に親しくなったのだ。このエピソードはここで公開される話で、これまでの空手道史では記されていなかった。
また初代は本部流の本部朝勇翁(1867年~1930年)にも師事している。そこではウンスー、ワンス―を伝授された。本部翁の門下生であった上原清吉翁(1904年~2004年)と初代とは本部門下として同門であり、先輩・後輩の間柄となり、親交があった。上原翁などが中心になって結成された沖縄古武道協会(後の全沖縄空手古武道連合会)の会合では、上原翁の他、数名の先生との記念写真も残っている。
上原翁に初代のことを尋ねると、「大きい男だった」という言葉がよく出てきたが、体格的に大きな差はない。武人ゆえに感じる感覚だったのかもしれない。
さらに、チャンミーグァーとして知られる喜屋武朝徳翁(1870年~1945年、生年に異説あり)にも師事し、チントウ、クーサンクーを学び、バッサイ、アーナンコーを新垣安吉翁(1899年~1929年)と一緒に学んでいる。
一部の空手道史の本の中には、初代の師の1人として安吉翁の名前が挙げてあるケースがあるが、それは間違いである。安吉翁と初代の出会いは守礼の門での掛け試しであった。そのつながりから安吉翁は喜屋武翁の下で学んだのだ。
また、初代の師の1人、本部翁は糸洲安恒翁(1830年~1914年、生年没年ともに異説あり)からも学んでいるが、その関係からそこで同門だった花城長茂翁(1869年~1945年)にも師事し、翁が得意だったジオンを習得した。
初代の武術家としての交流
初代は1922年に上京し、医学生になって勉学に励んだ。奇しくもこの年、富名腰義珍翁(1868年~1957年、生年に異説あり)も上京し、文部省主催の体育博覧会で空手道の紹介を行なった。富名腰翁はそのまま東京で生活することになり、沖縄出身者が居住する明正塾に寄宿した。そして自然にそこを中心に空手を教えるようになった。富名腰翁は約30年間、沖縄で教師をしていたが、初代が小学生時代の担任だった。そういうご縁もあり、初代も富名腰翁の空手指導のお手伝いをされた。
初代と富名腰義珍先生(昭和30年8月18日)
その際、今では各流派の開祖である先生が学びに来られた。和道流開祖大塚博紀先生(1892年~1982年)が1922年から、神道自然流開祖小西康裕先生(1893年~1983年)が1925年から、日本空手協会を設立した中山正敏先生(1913年~1987年)が1932年から富名腰翁から教えを受けている。
また初代は、空手道史ではよく登場する富名腰翁の三男義豪先生(1906年~1945年)だけでなく、長男義英先生(1900年~1961年)も前述の先生たちと共に指導されている。
初代は上京後、いろいろな武道も学ばれ、剣道では高野佐三郎先生(1862年~1950年)に師事し、当時日本剣道界の双璧だった中山博道先生(1872年~1958年)とも交流があった。
柔道も学ばれており、加納治五郎先生(1860年~1938年)の下では不世出の柔道家三船久蔵先生(1883年~1965年)ともよく乱取りをされた。その際、初代の蹴りへの対策として懐に板を忍ばせていたというエピソードもある。
養成館道場
冒頭でもお話ししたように、一般的に千唐流としてのスタートは1946年、熊本県菊池郡隈府町に開設された養成館道場からと認識されている。初代宗家が48歳の時だ。松濤館の富名腰翁が1922年に東京で空手の演武をされたのが54歳の時で、その後東京に定住されて空手を指導され始めており、初代の48歳の時の道場開設について遅いという感覚はない。そして前述したように、戦前に沖縄の宮古島で道場を開設されていたことを考えると、空手道指導者としての歴史・経験は長いことになる。
その流れで熊本に道場を開設されたわけだが、そこでは戦後の荒廃時期、青少年の健全育成を意識され空手の指導を行われていたわけだ。
ここで時代背景を考える必要があるが、治安は現代とは大きく違っていた。だから戦いに使える空手ということが求められていたと思われるが、今風に言えば実戦空手ということになろう。
そのような状況の中、初代はいろいろなところでその実力を示された。その武の実力の一環として、天井の桟を掴んで移動していたという。その様子を見た門下生の人が武人としての実力とそういった基礎的な実力を見て、化け物みたいな先生、といった畏敬の念の目でいたというエピソードもある。
初代の師の一人である屋比久翁も天井の桟を掴んで移動することができたというエピソードがあるが、こういう初代の行為はそういうところの影響かもしれない。
その実力が現実に示された事件があった。千唐流が全国的、世界的に広がるきっかけになったことだが、1951年のことだ。
当時はまだ戦争が影を落としていた時期で、進駐軍が駐留していた。進駐軍の兵士と日本兵の生き残り人たちのいざこざはしょっちゅうあったようだが、熊本市の繁華街である新市街というところで総勢約30人が争っているところに初代が出くわした。当然、警察もМPも駆けつけていたが、しばらく収まるまで静観するという状態だったという。
しかし、初代の正義感に火を着けるようなこの状態は見過ごせず、何より一般の人に迷惑をかける状態が許せなかったのだ。そこで乱闘の中に単身割って入り、その騒ぎを鎮めてしまったのだ。
だが当時、進駐軍に手を出すということは大変なリスクだったので、さすがの初代もその場をすぐに立ち去った。
数日後、初代は警察から呼び出しを受けた。初代も恐縮して出頭したということだが、待っていたのは署長だけでなく、進駐軍の司令官もいたのだ。
そしてその口から出たのは、進駐軍に手を出したお咎めではなく、武術教官の依頼だったのだ。
敗戦国の人間が戦勝国の、しかも軍隊のコーチというのは当時として異例中の異例である。今でこそ各国の軍隊で空手の稽古は珍しくないが、時代背景を考えると司令官はともかく、現場ではいろいろあったであろうことは想像に難くない。
こういう場ではしっかり実力を明示し、みんなの信頼を勝ち得た上で行なうことが大切になるが、その上で徹底的に鍛え上げていった。そしてその時に学んだ人たちが海外雄飛のベースになったのだ。
その当時、空手道だけでなく柔道や剣道も指導されていた。それは熊本だけでなく、九州各地の基地でも行なわれた。大分の部隊にヘンリー・スロマンスキー氏がいたが、初代から5段が授与されている。このヘンリー氏はプレスリーの最初の空手の師としても知られているが、プレスリーのレコードジャケットやプライベート写真などには、千唐流のバッジを付けた様子が写っている。
また初代は、指導の傍ら、故郷の沖縄にも思いを馳せた。戦争の激しい戦火に見舞われた故郷の復興のために少しでも助けになればということで1947年、熊本歌舞伎座で空手の演武会が開催された。
この時、同じく東恩納翁の門下生であった東恩流開祖、許田重発先生(1877年~1968年)も参加されている。許田先生については、その師、東恩納翁や剛柔流開祖、宮城長順翁との関係から最初は剛柔流を名乗られていたが、師である東恩納翁の名前の一部をいただき、自身の流派名にされている。残されている形を見ると、剛柔流では行なわれていない形がある。
世界に広がる千唐流
時代が落ち着いていくにつれ、千唐流も広がっていった。空手の指導は進駐軍から警察予備隊、自衛隊へと移り、自衛隊空手部に所属の部員の転勤や各道場の道場生たちの移転などで全国に支部ができた。現在、定期的に全日本大会をはじめ、東日本大会、西日本大会といったブロック大会も開催されている。
世界に目を向けても、進駐軍の関係や海外での空手普及に燃えた方々の努力により、各国に道場ができた。特にカナダの場合、現在の同国の全国組織であるNKAは千唐流がベースを作った。
進駐軍指導時代とハワイでの指導の中で行なわれた演武の様子
初代も海外に支部ができると指導に出かけられることが多くなった。北米が中心だったが1962年、1967年、1974年にハワイ、カナダ、アメリカで指導された。現地では大変な歓迎ぶりで演武、パーティー、技術指導など多忙を極めた。
特に1967年の時はカナダで行なわれた万博で千唐流がデモンストレーションを行ない、初代はそこに招待された。その関係でテレビ出演、閣僚との面談など、政治家並みのスケジュールをこなされた。
その実績が関係したと思われるのが、1970年、初めてアジアで開催された大阪万博では千唐流が空手界唯一の演武を行なった。武道とは縁のない世界的なイベントでの出来事は空手道史においても特筆すべきことだ。空手界の快挙といってもよく、このことを通じて日本が誇るべき文化であることを証明したのだ。
1970年に行なわれた日本初の万博での演武。この時、空手の演武は千唐流のみ
二代目千歳強直襲名
1984年6月6日、千唐流にとって衝撃的なことが起こった。初代が逝去されたのだ。享年86歳だった。亡くなる少し前、初代は「長順が迎えに来ている」といったことを話されていたそうだが、ご自分の死期を感じていらっしゃったのかもしれない。
だが、逝去されても技術や思想は確実に受け継がれていた。
同年、初代の長男安廣先生(1950年~)が二代目を襲名されたのだ。脇を固めたのが初代の高弟で、開祖を失ってもその命脈は続いていたのだ。
二代襲名式後の披露宴(昭和59年8月19日、菊池神社にて)
二代目は初代が存命中から共に行動され、千唐流の普及・指導を精力的に行なわれていた。海外にも随行され、初代の最後の海外指導になった1983年には、カナダで行なわれた大会で初代と共に演武をされている。
ここで二代目の空手道修行について触れておこう。
宗家を継承するということは、稽古の内容から異なる。初代からの直接指導も多く、流儀の核になる部分をしっかり伝授された。
その始まりは5歳の頃という。普通であれば同じ年頃の子供たちと遊びたい盛りだ。その頃空手を学ぶのは大人中心で、子供は数えるくらいだ。そのため、基本を稽古する時は大人と同じ厳しさになる。
だが、行なえる稽古内容には制限がある。基本が出来上がらない内は決して上級レベルの稽古はできなかった。
形も最初は二十四歩のみで、ここで空手に必要ないろいろなことを集中的に仕込まれたという。千唐流の二十四歩は今では珍しい新垣系で、初代が最初の師、新垣世璋翁から習得している。それを二代目にもしっかり伝え、将来のためのベースにしたのだ。
他には正整もしっかりやらされたという。この形は喜屋武朝徳翁からの伝承になるが、文字通り武技を正しく整えるための必要な要素が詰まっている。
組手が解禁になったのは中学生になった頃からだという。これには理由があり、千唐流では組手の際には防具を付けるが、当時は子供用の小さなサイズは無く、大人用がやっと着用できるようになるまではやりたくてもできなかった、というわけだ。
その時、組手の相手には自衛隊の猛者たちが相手になるという日々が続いたが、現代と違いかなり荒っぽい内容だった。体格が伴っていない段階では当たっても効かない、軽々と転ばされてしまう、といった過酷な稽古の日々が続いた。
だが、血は争えない。そういう激しさの中でメキメキと腕を上げ、時には武術的な反撃をするケースもあったという。
また、形の稽古の場合、その解釈についても理解しなければならなかったが、初代は技を感じること、考えさせるようにしていたという。それは一般の道場生に対しても同様だったが、初代が見せる技自体は二代目を継ぐ立場としての前提で教授されていた。
初代と2代目(熊本市松崎の旧本部道場にて)
そういう経験が正確無比の技を作り出し、講習会などの時の引き出しの多さにつながっている。
三代目への継承と宗家杯、掛け試し
2023年8月14日、千唐流にとって大きな節目になる。この日、千唐流三代目が誕生するのだ。この日は前日までの3日間に渡って開催される第14回宗家杯の次の日になるが、ここから新生千唐流がスタートすることになる。
三代目を継承するのは長男の千歳直幸先生だ。
先ほどは二代目も本名を表記したが、流儀的には二代目千歳強直先生、そして三代目千歳強直先生になる。ちなみに、初代の場合、本名を千歳近直(沖縄名で言えば知念近直となる)というので、千歳強直というのは千唐流宗家としての名前になる。
ところで宗家杯だが、原則として3年に1回行なわれているが、第12回大会は2016年、震度7という強い地震に襲われたために1年延期された。第13回大会は元のサイクルに戻すため2019年、カナダで行なわれた。
カナダで行なわれた宗家杯。指導者たちの集合写真
2代目と3代目(当時、宗代)による模範演武
ところが2022年に開催予定だった第14回大会は世界的な問題であるコロナ感染が重なったためこのサイクルが再び狂った。そのため世界が落ち着いた2023年に再開されるが、第1回は初代が逝去される1年前の1983年に開催された。
そこには初代の思いが凝縮されているが、それを継続・発展させたのは二代目の功績だ。そして今度はそれを三代目が引き継ぐことになる。こういう流儀の歴史は持ち前の団結心の表れと言えるが、継承式を経ることでその意識はより強固になる。
宗家杯の開催地は日本と外国を1回ごとに交代する。定期的に世界的なイベントを行なうには全員が一丸となって取り組む事が必要だが、幸い千唐流にはその要となる宗家の存在がある。継承式を経て三代目が誕生するということは、歴史の継承だけでなくその中核の継承とも言える。
これまで二代目はその役目を世界中を飛び回ることで果たしてきた。それを数字で表すと、約40年の間に世界中を飛び回った距離は100万キロを優に超える。それを実際に想像すると大変なことだ。しかし、そういう事実があるからこそ、千唐流はその命脈を保ってきたのだ。
そして今後、その役割は三代目千歳直幸先生(1982年~)が担うことになる。継承式後には三代目千歳強直先生となり、千唐流の新たな幕開けが始まるのだ。
直幸先生は本稿の執筆の段階では宗代だが、二代目は継承のことを想定し、早々に対応していた。千唐流は日本だけの流派ではない。世界的な流派だ。
そのことを前提に宗代が高校時代、カナダで3年間、いろいろな経験を積ませた。空手の修行に加え、語学習得の必要性を考え、二代目が決められたのだ。国際感覚を身に付け、時代を担う意識を早々に持ってもらおうという二代目の配慮だった。
ところで、第14回宗家杯までは二代目千歳強直先生の下で行なわれるが、初代千歳強直先生から知っているものとしては三代目までの流れを肌で感じることに感慨もひとしおだ。古い師範の方々も同様だろうが、伝統流派の重みを感じる。
伝統流派らしく、古式に法り神式で継承式を行なうわけだが、第15回宗家杯からは新しい香りがする大会になるだろう。
その際、武道集団千唐流としては選抜された選手だけで行なわれていた伝説の「掛け試し」を忘れてはならない。
これは防具を着用したKOルールとして1999年から2008年の第10回大会まで行なわれた。この大会は既存のルールに囚われない過激な内容だった。防具を着用しているからこそ逆にKOまで持って行くには強い衝撃を受け続けることになるため、自身の肉体をも武術としてしっかり鍛錬し、強い精神力を持って臨まなければならない。そこでは心技体に優れた者だけの選手しか出場できないというハイレベルの名試合が繰り広げられた。
この大会は千唐流としては防具付きルールの可能性を探るための試験大会という側面もあったが、所期の目的を達したところで終了した。その大会の様子は武術専門誌でも取り上げられるほどの内容で、グラビアにも登場していた。
こういう大会が行われていたのも千唐流の歴史に関係する。
初代は沖縄時代、「掛け試しの知念」として知られていた。その話は本部御殿手の上原清吉翁からの話として耳にしているが、掛け試しとは昔の沖縄で行なわれていた野試合だ。現代のようなルールは無く、互いの意地がぶつかり合う実戦試合だった。そこで初代は名を馳せていたが、その様子を復活させようというのが「掛け試し」と名の大会だったわけだ。
常に未来に挑戦し続ける千唐流。宗家継承後、さらなるチャレンジと未来が待っている。