新年明けましておめでとうございます。
3年に一度の宗家杯国際大会の開催年でもあり、創流80周年も重なる、記念すべき2026年がやってきました。
今年初の月刊モノローグはHP管理人のひとりで、日本千唐会統括本部長を務める“炎の男”佐々木師範の投稿です。
空手を通じた「出会い」を、たくさんの写真を交えながら語ってもらいました。
熊本・輝火塾の佐々木です。2024年の5月にホームページのリニューアルを行い、その中のひとつの企画として、各師範・関係者に自由な記事、コラムを書いていただく月刊モノローグをスタートさせました。
これまでに多くの先生方から原稿を頂戴し、毎月投稿させていただいています。
ご協力ありがとうございます。
毎回誰かに頼んでばかりで申し訳なく思っていましたので、今回は自分が書かせていただきます。
これまで空手を通じてたくさんの出会いがありましたが、特に思い出深い出会いや人物を、思いつくままに書き綴りたいと思います。
私が空手を始めたのは18歳。大学1年生の春に運命の出会いがありました。千唐流最強の男、武道の天才・仲村竜一先輩(現・輝竜館館長)との出会いから私の空手、というより人生が始まりました。
当時の防具付空手は全盛期で、仲村先輩は全日本王者として空手界に君臨されていました。
「強くなりたいなら俺がマンツーマンで鍛えてあげるよ」との言葉を頂き、即入門を決めました。
生まれてきてから一番影響を受けた師匠でもあり、人生の大恩人でもあります。
この人のおかげで今の私があります。
今考えると、一緒に稽古して直接指導を受けたのは短い期間、わずかな時間だったように思いますが、そのわずかな時間がすごく濃密だったんでしょう。
仲村先輩が大阪へ就職することになり、熊本を離れる際にいただいた別れの言葉。
「お前は俺が今まで出会った人間の中で一番の努力の天才だ」というお褒めの言葉に加え「後は工夫する心、集中力」「空手は想像力だ。人と違う技を考えろ。稽古は人一倍集中してやること。」を胸に修練を重ね、3年後、無差別級として最後の大会(現在は基本的に体重別2階級制)でもある1997年全日本大会の決勝戦で闘えたのは恩返しでもあり、私の人生のクライマックスだったように思います。
仲村先輩に弟子入りし、最初に所属したのが熊本商科大学古武道研究会(千唐流の防具空手サークル)です。
顧問は大学職員でもあった江島和廣先生(健之館館長)が務められていました。
自分の最初の空手の先生は江島先生ということになります。
主将は津軽康敬先輩、エースが仲村先輩。当時は格闘技ブームの真っただ中で、学内には防具空手、全空連、フルコンタクト空手、少林寺拳法、少林拳、ボクシングなど多くの打撃系サークルが活動しており、部員数も多かったです。
そんな千唐流のクラブで同期の井芹康博くん。
同級生で、同じ日に入門。空手以外にもアルバイトも一緒にしていました。
仲村先輩と同じく、非常に影響を受けたひとりで、自分とは違うタイプのリーダーシップを持つ男。年末に行われていた養成館大会で優勝し(1988年王者)、自分より最初に結果を出したのも彼でした。
彼は大学卒業と同時に空手を引退しましたが、良き友・良きライバルとして今でも思い出します。2001年の宗家杯熊本大会に応援に来てくれた時は嬉しかったです。
大学卒業後、空手修行の場所として選んだのが、当時最強の布陣で猛練習をしていた樋口道場。
仲村先輩が所属していた道場で、道場長はラストサムライの異名をとり、空手一本で生活をされていた樋口 稔先生(樋口道場 道場長)。
商大時代、夕方は大学のクラブで稽古、夜は樋口道場に出稽古と二部練をしていたため自然な流れで移籍させていただきました。快く送り出してくれた江島先生にも感謝しかありません。
当時の樋口道場は仲村・益田・柱松・津軽・菊川の各先輩をはじめとする猛者達が鎬を削っており、樋口先生が先頭を切っての、ほぼ実戦組手の猛練習でした。
樋口先生とは今も続く師弟関係であり、樋口先生なしでの私の空手人生は語れません。
空手の師匠としてだけではなく、空手を続ける場所と環境を与えてくださった大恩人です。

(1989年の宗家杯バンクーバー大会は樋口道場一行と同行させて頂きました)

(2013年、樋口先生の還暦祝いで樋口道場一般部の同窓会開催)
時が流れ、2018年に樋口道場少年部が県大会において総合優勝、形・組手最優秀道場賞の完全制覇が出来たのは、二人三脚で指導を行ってきた成果が花開いた瞬間でした。
2023年には道場創立40周年の記念パーティーを行い、改めて樋口道場の歴史の重みを感じた次第です。
樋口道場の先輩方の中でも一番厳しかった(組手が!笑)のが益田安志先生(現・誠信塾塾長)。
(ロシア・サンクトペテルブルグでのツーショット)
樋口道場初代主将でもあり、私が稽古、大会を通して一度も勝てたことがない!数少ない一人です。
独特のサウスポースタイルから、「若い芽は摘む」と言わんばかりに繰り出される左のコークスクリューブローでコテンパンに叩きのめされました(笑)。

(1989年宗家杯バンクーバー大会でクリス種田先生、益田先生とスリーショット)
とにかく、すごく強かったのを覚えています。
当時は仲村・田中の2大スーパースターが君臨していた時代でしたので、毎回準決勝で田中先生との死闘の末に惜敗だったと思います。
ただ、この頃は防具空手最盛期で大会出場者が非常に多く、準決勝に進むだけでも4~5試合は勝つ必要がありましたので、3位入賞でも容易な時代ではありませんでした。
日本代表選手として出場された1992年の宗家杯(オーストラリアで開催)後に、いち早く現役を引退され、指導者、そして審判員の道を歩まれました。
1993年か1994年に樋口道場師範代に就任され、それまでほぼ実戦組手稽古・大会前だけ防具組手稽古だったのを防具組手中心の稽古に見直され、一から鍛え直して頂きました。
たぶん、私の防具組手技術の本当の基礎はこの時に身についたものだと感謝しています。
(2006年、ロシア・サンクトペテルブルグの湖畔で寒稽古。益田・仲村・佐々木の歴代樋口道場主将)
私が空手を始めた当初、当然周りの選手たちは小学・中学・高校からの経験者も多く、黒帯や茶帯の中に白帯で大会に出ていたわけで、技術の差は歴然としていました。
が、防具空手の試合で勝つためには技術や経験以外にもメンタルや根性、技術はなくとも気合とパワーで前に出ればそこそこ戦える。
仲村先輩直伝の剣道式の直突きを武器に、暴れん坊な、喧嘩みたいな試合(笑)をやっていた気がします。
そんな中で大会等、事あるごとに私の組手スタイルに対して批判、注意をしてくる先生がいました。もっと技術を磨いて綺麗な組手をしなさい、と。
今は千唐流には所属されていませんが、K先生。その頃は正直、大嫌いでした。
そんな中、壁にぶち当たります。気合や根性だけでは勝てなくなる時期が来るんですね。ウエイトで筋肉をつけ、サンドバックを打ち込んで体力をつけ、馬鹿みたいに相打ち覚悟で突っ込んで上段への打突ばかり。1~2回戦や小さな大会では勝てても、県大会ではメダルを取れない。
大学4年生、在学最後の県大会も2回戦で負けてしまいした(相手はたしか益田先生だったような?)。
事情があり、卒業後は1年間空手修行をやるつもりでしたので、県大会後は就職活動をせず、中段突きをはじめとした技術を磨く稽古に没頭しました。
そして向かえた、年末の1990年養成館大会に出場。身長180~190cmくらいはある、ふたりの大きなカナダ人が出場していました。
どちらの選手とも対戦しましたが、中段突きを駆使して撃破、学生最後の大会を優勝で飾ることが出来たのですが、試合後すぐにK先生が来られて「今日の試合は素晴らしかった。こういう戦いをしていけば全日本大会や宗家杯でもいつか優勝出来るよ」と。すごく褒められて、やっと気づきました。
違う道場の先生なのに、私のことを思って、本気でアドバイスをしてくれていたんだな、と。
そして翌年の熊本県大会、空手を始めて5年目で初めて県大会優勝を果たしました。伝えることは出来てませんが、すごく感謝しています。

(2016年の熊本地震復興イベントで元気なお姿を拝見しました。)
当時はそんな先生が多かったですね。
これまた今は千唐会にはおられませんが、N先生もそのひとりです。
自分が空手を始めた当初から、大会会場では良くアドバイスを頂いていました。
そんな中、1994年の第5回全日本大会。田中先生、益田先生が現役選手を引退され、仲村先輩は不参加だったこの大会。
私は1991年県大会優勝(決勝戦・福岡礼一先生)/1992年県大会準優勝(決勝戦・仲村先輩)/1993年県大会優勝(決勝戦・拳誠館水植選手)と3年連続で熊本県大会のファイナリストになり、優勝候補の一角に数えられる選手に成長していました。
この大会には広島の桑田展央選手や本部道場の中村光一選手など次世代の日本代表候補がひしめいていました。
結果的に優勝は中村光一選手。準優勝は桑田選手でした。
私は準々決勝において健軍自衛隊の選手に1-0で敗退。
「審判が自分の技をとってくれない。主審は対戦相手の所属する関係者だから贔屓してる」という感じで試合後に激昂しているときに時にN先生が近寄って来られ、「お前、何言いよるとや?」と。「たとえ贔屓する審判がいたとしても、だれが見ても完璧な1本なら旗はあがるだろ?」「誰が見ても1本を取れなかったお前が悪い」と。目からうろこ、自分が恥ずかしかったです。
それからは“誰が見ても1本”を取れるように技を磨き、座禅を組んで内面を鍛え、1995年の宗家杯(3位入賞)や1997年全日本大会(優勝)につながっていく大きなきっかけになった出来事でした。
桑田展央先生(広島県福山市)は1995年宗家杯熊本大会や1998年宗家杯トロント大会でともに日本代表チームの一員として戦った、ライバルでもあり戦友のような感じで、“ノブ”と呼んで親しくしています。
結局大会では1回も対戦することがありませんでしたが、もし闘っていたら勝てたかどうかわかりません。
1998年宗家杯での団体戦決勝は日本VSカナダAチーム。グレン、ミッチェル、ゲーリー、ロン、など当時のカナダ勢最強布陣に対して、いまいち波に乗れないまま決勝進出を果たした日本代表チーム。正直、敗色が濃厚の嫌な感じでした。
そんな中の先鋒戦。桑田選手VSグレン・カーク選手。グレン選手は本大会個人組手の重量級王者にしてグランドチャンピオン決定戦覇者(※詳細はグレンさんの項で書きます)。
190㎝近い身長でありながら動き(スピード)が我々と変わらない、類まれな身体能力を持っています。
桑田選手はそんな世界チャンピオンのグレン・カークと互角に渡り合い、遂にはグレンを倒して日本代表にとっては貴重な、奇跡的な1勝をもたらせてくれました。
彼のおかげで波に乗れた我々は、4勝1敗で勝利し優勝することが出来ました。宗家杯での最高の思い出のひとつになっています。
ノブとはその後も、一緒に師範の審査を受けたり、私の生徒達(樋口道場少年部)の指導のため、何回も広島から駆けつけてくれました。サンキューな。
私と同じ商大古武道研究会の先輩、石橋崇文先輩(樋口道場四代目主将)は、一番長い期間一緒に稽古した先輩でもあり、相棒のような存在です。
学時代は週1回、水曜日だけ練習に来て、組手だけされていました(笑)。
仲村先輩は武道の天才ですが、石橋先輩も格闘技センスが天才的で、身体も大きくパワーもあり、ちゃんと練習していたら(笑)手が付けられない程強くなったと思います。
大学卒業後、一旦空手界から離れられましたが、何度も樋口道場に勧誘して再入会してもらいました(笑)。
二人で一緒にトロント宗家杯やノルウェー宗家杯に行きました。他の仲間も一緒に香港宗家杯にも行きました。
大会、演武会、滝行、事あるごとに一緒に参加し、また、いつも協力して頂きました。
2008年に樋口道場一般部の輝火塾創立後も行動を共にしていただき、外国人よりもルーズなのが玉にキズです(笑)が、こんな純粋でいい人はいないと思います。
石橋先輩に関しては逸話がたくさんあり過ぎます(笑)ので、また機会があればお話したいと思います。
宗家杯の話題が続いていますが、宗家杯最優秀選手として3大会連続で宗家カップを受賞したレジェンド、田中裕二先生 (鳴鳳堂・武道/武術講師)を忘れることは出来ません。
私は勝手にミスター千唐流と呼んでいます(笑)。
自分が若手時代、大会の決勝戦では必ず田中先生と仲村先輩が激突し、当時の少年ジャンプに連載されていた「ドラゴンボール」天下一武道会での悟空(田中先生)VS天津飯(仲村先輩)の闘いが重なって見えていました。
私が商大在学時には本部道場で指導をされていましたので、樋口道場が休みの日は本部道場に行って稽古をつけていただいた記憶があります。
私とは明らかに格もレベルもダンチですが、仲村先輩の輝竜館道場開き“侍祭り”や、和のコラボイベント“侍祭り2”で演武出演者として同じ舞台に立てたことは、この上なく光栄です。
さて、2007年の宗家杯ノルウェー大会選手選考での出来事を話したいと思います。
私は前年の全日本大会1回戦で敗北し、日本代表どころか現役選手として自信を無くし、プライドもへし折れてボロボロの精神状態でした。
そんな中、仲村先輩の道場開きで行った氷柱試割り演武の成功により自信を少し取り戻したものの、再び宗家杯に出ようなんて気は毛頭ありませんでした。
宗家杯ノルウェー大会開催が近づいてきたある日、田中先生から1本の電話がありました。宗家杯に日本代表として出てくれないか、と。 さらに日本代表選手団主将として若い選手たちを引っ張ってもらいたい、と。
私は「全日本大会1回戦で負けた私には代表の資格はありません」と断りましたが、その後も説得は続きました。
思い悩みましたが、田中先生ほどのレジェンドから直々に声をかけて頂いている事実、そして選考試合に負けたのにもかかわらず、日本代表に選んでもらえる事実は、逆に凄いことではないか?と考え直し、引き受ける決心をしました。
それから先は悩んでいる暇はありません。組手の猛稽古を再開し、当時37歳の力を振り絞って個人組手3位入賞、団体組手日本チーム優勝と結果を出すことが出来ました。
一度死んだ自分を田中先生の力で再生して頂いた、と今でも感謝しています。
2007年にノルウェー大会に行ったことでいくつかの出会いがありましたが、その中のひとりに水村春香先生(春武会代表)がいます。
えらく元気な女の子がいるな、て感じで見ていましたが、組手スタイルが何となく仲村先輩に似ているんですよね~。
女版仲村竜一(笑)。こんな強い女子選手はなかなかいないよね(笑)。
ノルウェー大会の後も、日本代表の選手やら監督やら大会審判やらでコラボが続き、合宿やら強化練習やら、なんやかんやでいつも仲良くさせてもらっています。
彼女は今でもいろんな大会に出場して優勝し、千唐流防具組手の強さを証明しながらちゃ~んと強いお弟子さんも育てています。素晴らしいね!
話は変わりますが、空手のおかげでたくさんの外国人の友達が出来ました。いまだに英語は話せませんが(笑)。
それまで全く縁がなかった国際交流。
一番思い出深いのはカナダ人のマーク・ウォーターフィールド先生(真賢館館長)ですね。
現役選手時代はライバルでもあり、緑目のサムライとして日本代表選手団の一員にもなった戦友でもあります。
最初の出会いは1998年の宗家杯トロント大会、軽量級個人組手準決勝の相手が若いマーク先生でした。
(1998年宗家杯トロント大会)
彼はその後来日して、日本語をしゃべり、空手を基盤にして生活する侍のような姿には尊敬の念を抱かずにはおられません。
2007年宗家杯のノルウェー大会では日本代表として共に戦い、試合後は彼の部屋で朝まで熱く語り合いました、石橋先輩も一緒に(笑)。
私が初めて日本代表監督を務めた2010年宗家杯(熊本開催)では彼を日本代表チームの主将に指名しました。当然のように、彼は若い選手たちを導びき日本チームの連覇に貢献してくれました。すごい男です!
続けて、あと3人カナダの友人の話をします。
1998年と2001年の2大会連続で宗家杯決勝戦を争った相手として、ゲーリー・サビーン先生(カルガリー)も強く記憶に残っています。
ロケットパンチのように伸びてくる上段突きには苦戦を強いられました。今ならゴムゴムのピストル、と言った方が分かるかな?(笑) 1998年は私が優勝、2001年は彼が優勝。
当時はすごい強敵・ライバルでしたが、お互い選手として第一線を引いた現在は親しい友人でもあります。
闘い終わればノー・サイド。2007ノルウェー、2013香港、2019ペンティクトンで再会、また次に会うのが楽しみです。

(2007年、ノルウェー・ベルゲンにて一緒にフィヨルド観光)
ミッチェル・ジャーマン先生(ハリファックス龍生館館長)とはノルウェー大会の打ち上げパーティーで同席し、マーク先生を通じて親しくなりました。
彼とマーク先生の関係が、仲村先輩と私の関係に似ているところもあるようです。
1995年の宗家杯熊本大会は最後の無差別級トーナメントでした。
一般男子組手の参加選手は120名超えるビッグトーナメント。
ミッチェル先生はこの大会で優勝しましたので、最後の無差別級世界チャンピオンということになります。
現在、地元のハリファックスで多くの生徒を一流選手に育て上げており、指導者としても別格で、非常にリスペクトしている先生の一人です。
昨年ですが、私の道場にもいつか稽古に来たいと連絡があり、今から非常に楽しみにしています。
(2010年宗家杯熊本大会さよならパーティーにて)
桑田師範の項でも触れましたが、世界最強グレン・カーク選手(当時、種田道場所属)。
仲村先輩最大のライバルでもあり、世界大会では常に二人の激戦が展開されていたのを思い出します。グレン選手は非常に稽古熱心で、長期間にわたり本部道場に空手留学されていました。

(左がグレン選手。2010宗家杯熊本大会マスターズ組手決勝戦、対戦相手は輝火塾・石橋崇文選手)
1995年夏、宗家杯熊本大会を目前にしてハードワークをこなしていた樋口道場にも数回出稽古で参加されました。
当然、そこで私と何回も組手稽古を行いましたが、190㎝の大型ファイターとは思えないスピードで動き、実力はもちろんも、ネームバリューも私とは桁違い。
とは言え、私も仲村先輩から主将を引き継いだばかり、3代目の樋口道場主将としてのプライドで喰らいついたのを覚えています。
そして訪れた宗家杯の開催日、開会式で目が会うと近づいてきて、「ユー、セミファイナル!」と言葉をかけられました。
実は、お互いに勝ち進めば準決勝で当たるトーナメント表の配置で、まさか私のことを認識してくれており、対戦表までチェックしているとは思わなかったので、すごく感激したのを覚えています。
結局、グレン選手が準々決勝でまさかの敗退を喫したため対戦は実現しませんでした(結局私も同じ相手に準決勝で敗北)。
試合後に再び話す機会があり、
「佐々木さん、あなたは今25歳だから、一番強くなるのは3年後の宗家杯。私は年齢的に今回が最後のチャンスだった。私の分も頑張ってください。」
と言ってもらい、その言葉どおり1998年、初めて階級制になった宗家杯の軽量級で優勝することが出来ました。
ちなみに、重量級は決勝で仲村先輩(仲村先輩は私と一緒にW優勝するため敢えて重量級にエントリー、男気!)を倒したグレンが優勝。グランドチャンピオン決定戦で私と雌雄を決する事になりましたが、グレン選手の圧倒的な強さに3-0で敗退しました。3ー0で負けた事なんて、あまり無いから。
「最後のチャンスだった」って… さらに強くなってるじゃん(笑)。
グレンさんは益田先生同様、練習でも試合でも勝てなかった数少ないひとりです。
アメリカ人のジョン・ガンビーノ先生(USA-ICKF道場)も非常に親しくさせていただいている外国人のひとりで、最初に会ったのは1989年の第3回宗家杯バンクーバー大会でした。
この大会も非常にビッグトーナメントで、12パートに分かれたトーナメントは4回勝てばパート優勝。その後12名による決勝トーナメントというものでした。
私はまだ空手を始めて3年目で、ただ仲村先輩の技の真似をして、気合と勢いだけで試合に出ていた頃でしたが、伝説のJAPAN MUSASHI(いわゆる日本Bチーム)に抜擢されて大会に参加することが出来ました。
そして、個人戦を勢いだけで勝ち進み、パート決勝では当時のアメリカ王者フィグス選手を破るという大番狂わせを起こして決勝Tに進みました。この決勝Tの1回戦で当たったのがガンビーノ先生でした。
試合内容は覚えていませんが、全く歯が立たずに負けたような気がします。
それから30年の時が流れて、2019年の宗家杯ペンティクトン大会で審判団の一員として再会する事になります。
名前を憶えていましたので、「30年前の大会であなたと試合をして負けました。」と拙い英語で話しかけたところ、非常に喜んでくれて会話がはずみました。それからは再会するたびに親しくさせていただいています。
最初の出会いから30年の時を経てアメリカ人の友達ができたのも、空手を辞めずに続けているからでしょう。
最後にもう一人外国人との出会い。
オーストラリアのマイケル・ヌーナン先生(達成館館長)。オーストラリア本部長を務められています。
最初に見たのは私が空手を始めてすぐの大会、たぶん5月の大津つつじ祭り団体戦だったと思いますが、先輩の応援として会場に応援に行った際、金髪の外国人が試合前のアップで二段蹴りを行っており、黒帯には「舞蹴(マイケル)」のネーム刺繡が施されていました。
当時、熊本で外国人を見るのは珍しい時代で、同期の井芹君とあの外国人かっこええね~、と話したのを覚えています。 彼とは直接対戦をする機会はありませんでしたが、オーストラリアの代表選手として宗家杯等で活躍されていました。
彼との接点ができたのは最近なのですが、2023宗家杯熊本大会時にトーナメント・ディレクターとして各国との競技調整を行っていた私は、国際議長の七井先生を介して試合ルールに関する話し合いを彼と行い、次第に親しくなっていきました。
2024年には達成館を中心としたオーストラリアの若手選手たちが来熊し、我が道場で数週間にわたる組手トレーニングを行ったことで、選手たちはもちろん、マイケル先生との絆もより深くなりました。

(2024年、樋口道場一門と達成館を中心としたオーストラリア選手団の合同稽古)
千唐流、そして宗家に対する深い愛情を感じる、千唐流の未来には欠かせない人物だと思います。
今年の宗家杯開催地・オーストラリアの顔役、どんな大会になるのか、今から楽しみですね!

(オーストラリアの未来たち。私にとっても大事な生徒たちです。)
前項で七井先生の名前が出ましたが、宗家室国際部長の七井誠一郎先生(城西国際大学空手道部師範)とも不思議な縁でつながっています。
確か、私が大学2年時の全日本大会で対戦したような記憶がありますが、試合前に観客席で仲村先輩とお話しされていたので聞き耳を立てていると、“ごっつあん”とか、高校時代にすごくお世話になった先輩の名前が出てきたので、お二人に尋ねてみると、仲村先輩とは帯山中学時代からの同級生で、本部道場に誘ったのも七井先生との事。
ごっつあん(後藤先輩)も帯中の同級生で、ほかにもたくさん共通の知人がいるようでした。
千唐会は世界に支部がある流派ですが、国際間のやり取りに関しては七井先生なしでは成立しないと言っても過言ではなく、流暢な英語を駆使して各国の首脳陣との名パイプ役となり、国際間に調和をもたらせているのも、そのお人柄の良さからくるものでしょう。
2023年の宗家杯ルール調整の際は、一緒に日本の考えを伝え、試合さながらの駆け引きで各国と渡り合った、まさに戦友と言えます。今年の宗家杯オーストラリア大会では、敏腕七井先生の力無くしては成立しないでしょう。
記事が長くなってます、すみません。
最後に現在千唐会の中堅として、また役員として会の運営に携さわり、また選手育成や審判員の技術向上などに取り組んでいる、同志ともいえる先生方の中から数名書き綴ります。
これからの千唐流競技部門を引っ張っていく同志、仲間たち。
私は2008年に樋口先生から樋口道場一般部を統括させて頂き、輝火塾を立ち上げ指導を行っていましたが、少年部の指導に関しては全くのノータッチでした。
もともと自分が練習したくて空手を続けていましたので指導自体に興味がなく、ましてや子供に全く興味ありませんし(笑)、空手なんて危険なものは大人がするものだ、と思っていましたので(笑)。
しかしながら、2013年に樋口先生が体調を崩され長期間の入院になりましたので、恩師のために道場をつぶしてはならぬ、という思いだけで子供たちを教えるようになりました。
ただ、やるとなると何でも全力でやってしまう悪い癖があり(笑)、今日まで12年と8か月間、全力で少年部指導も行っています。
そういう中で参考にさせていただいたのが当時若くして道場を開き、いいお弟子さんをたくさん育てていらした広瀬正和先生(広瀬道場 道場長)。
広瀬道場には出稽古参加させていただいたり、練習試合等で交流を深め、選手の育成について語り合うこともあります。 彼とは現役選手の時代は少しかぶっていますが、残念ながら対戦経験はありません。
試合では鋭い蹴り技を武器に大暴れされていました。
我々に共通しているのは“防具付空手道千唐流は強く鋭い打突”との思い。
これからもともに、強い防具付の選手を育てていける同志のひとりだと、勝手に信じて疑いません笑。
同じく選手育成の参考にさせていただいたのが西岡大志先生(関西拳眞館西岡道場館長)。
全世界的に見ると、”空手”の競技人口自体は右肩上がりだと思いますが、空手は柔道などとは違い他流乱立の世界。
同じ空手でも流派が違えばルールもスタイルも変わる。
防具付直接打撃の我々の立ち位置は厳しい状況にあります。
そんな中、大阪の地において立派に後進を育成していらっしゃるのが西岡先生。
東京の水村先生や中山先生も同じです。他にも静岡、栃木など、千唐会ではアウェーの地において立派な活動をされている先生方には、頭が下がります。
本部道場所在地がある我々熊本は、彼らの苦労も考えず、地の利に胡坐をかいているのでは?と反省することしきりです。
西岡道場とは父兄の皆さんや道場生たちとも仲良くさせて頂いています。出稽古したり、大阪の大会に参加したり、旅行にも一緒に行きましたね(笑)。
お弟子さんたちのために、そして防具付空手の未来のために、本当に一所懸命な西岡先生。見習う事ばかりです。
また一緒に飲みましょう!
私は現在統括本部長として“選手ファースト”を掲げ、選手たちがより良い環境で空手に携わり、千唐流の空手を習って良かった、と思ってもらいたいと、力及ばずも尽力・奮闘しています。
仲村先輩からは“熊本一熱い男”と呼んでもらったこともありますが、熊本には他にも熱い男がいるんですよね~。
タイプは違いますが(笑)。
坂口達也先生(武豊館館長)と議論すると、時々的外れなこともありますが(笑)、とにかく熱いですね。
選手ファーストを地で行っている感じ。
最近、達也先生ともよく合同練習等、協力しながら選手育成を行っています。
私の現役選手時代、彼は形競技の選手として一世を風靡されていました。1997年の全日本大会の組手優勝は私ですが、形競技の優勝者が達也先生。宗家杯でも日本代表選手として活躍されています。
そんな彼が1999年の熊本県大会組手競技にエントリーして、なんと決勝戦まで勝ち上がり、私と優勝を争った事があります。形も組手も一流の選手でした。
大会後や、練習試合後に道場生を集め、叱咤激励しているお姿をよく拝見しますが、これも彼流の弟子達への愛。
お父上でもあり、空手のお師匠様である故・坂口豊先生の教えを受け継ぎ、次世代のために尽力されている姿には感銘を受けています。
そんな達也先生と同じく、やはり形競技で一世を風靡された小山浩一先生(拳誠館館長)。
現日本千唐会会長です。
統括本部長の仕事をしていく中で、時には相談、また協力をしていただき非常に助かっています。
ともに会の未来を憂いながら、道場間の交流で少年部の合同練習を行い、後進を育て、未来に繋がるよう努力を惜しまない同志の一人。
小山先生とは年齢も一つ違い、選手としても同時代を生き、県大会では対戦したこともあります。
宗家杯でもそれぞれ形・組手の日本代表選手として海外の選手たちと闘ってきた、選手の気持ちが理解できる選手ファーストの先生が日本千唐会会長なので、厳しい時代ですが、光をもたらせてくれると信じています。
小山会長をはじめ、西岡副会長、広瀬先生、水村先生、達也先生、マーク先生、その他中堅の位置にある先生方、同世代の我々は、全員選手として大会を経験し、勝利のために汗にまみれ、涙をこらえ、血をたぎらせて稽古をしてきたメンバーです。
だからこそ選手の気持ちが分かる、選手ファーストの心を持った先生方。我々が最後の砦です。
これからの選手達が千唐流空手に入門して良かった、と思えるように、また少しでも会員増えるように工夫を凝らし、頑張っていきましょう!
ここまでたくさんの出会いや思い出を書き綴り、長文になってしまいました。
まだまだたくさん書きたいのですが、HP誌面の都合もありますので最後にします。
最後に輝火塾の仲間たち。
今の私が空手を辞めずに続けている原動力は、たぶんここにあると思います。
40代、50代になっても毎週の稽古に熱心に通って来る選手。
女子なのに男子と同じ稽古を当たり前にこなす選手。
小さな頃から指導してきた愛弟子たちも大きくなって一般部の輝火塾で稽古を始め、弟子から心強い仲間へと成長してきました。
こんな自分を信じてついてきてくれる仲間たちには感謝の気持ちでいっぱいです。
みんな、サンキューな。そんな仲間たちのためにも、俺は、頑張るバイ!
以上、長文ご清聴ありがとうございました。
空手を通したすべての「出会い」と仲間に感謝して筆をおきます。
輝火塾 佐々木 孝裕
※追伸
今後の月刊モノローグ投稿について、2月は静岡から、3月は栃木からの投稿をお届けする予定です。
そして、新年度4月は満を持して三代目宗家先生の登場。
5、6,7,8月は宗家杯オーストラリア大会を記念して宗家杯シリーズをお届けしますのでお楽しみに。
各県・各道場からの臨時投稿記事も随時受け付けていますので、ご協力よろしくお願いします。
みんなで会を盛り上げていきましょう!


























































